エラ・フィッツジェラルド,ルイ・アームストロングwww.nhk.jp
【目次】
シリーズJAZZジャイアンツ 61 ノーマン・グランツ
今回は音楽プロデューサーのノーマン・グランツの特集でした。ヴァーヴやパブロといったレコード・レーベルを設立した方だそうです。
1918年8月6日カルフォルニア州ロサンゼルスでウクライナ系ユダヤ人の家庭に生まれました。高校卒業後大学で学ぶために資金を稼ぐために証券会社で働いて金融に関する見識を得たそうです。1939年にコールマン・ホーキンスの『Body And Soul』の録音を聴き本格的にジャズにのめり込み、大学生だった1940年代初頭にロサンゼルスのダウンタウンでジャズのジャム・セッションを企画するようになったそうです。当時のジャム・セッションはクラブなどで仕事を終えたミュージシャンたちが夜な夜な集まって好き勝手に演奏する、自分たちでセッションして自由にアドリブを交換することだったそうです。なのでジャム・セッションは公式なコンサートという訳ではなかったのですが、ノーマン・グランツはナイト・クラブが休みの日を上手く利用してセッションの企画を始めます。その際に彼は三つの条件を出したそうです。
1. 事前に宣伝してミュージシャンにきちんとギャラを払えるようにする
2. ダンスフロアーにテーブルを置いて、聴く以外のことは何も出来ないようにする
3. クラブを白人だけでなく黒人にも解放する
ノーマン・グランツは差別に対して非常に敏感で、差別が起こらないように自分の音楽の中でも企画でもするということを貫き通したそうです。ナット・キング・コール、レスター・ヤング、ビリー・ホリデイなど黒人で差別されている立場にあった人たちと親交を深めていったそうです。
Billie Holiday「Trav'lin' Light」
1946年10月ロサンゼルスのシュライン・オーディトリアムで行われたセッション。
穐吉敏子「Solidado」
1953年11月J.A.T.P.の日劇公演の時に銀座でオスカー・ピーターソンが穐吉敏子さんの演奏を発見しノーマン・グランツが後押しすることによって、穐吉敏子さんの初アルバムが東京で録音されたそうです。メンバーはJ.A.T.P.で来日していたハーブ・エリスのギター、レイ・ブラウンのベース、J.C. ハードのドラムス。
Ella Fitzgerald & Louis Armstrong「Can't We Be Friends」
1956年ノーマン・グランツは長年の夢であったエラ・フィッツジェラルドとの契約を勝ち取ります。エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングの共作『Ella and Louis』より。
Ella Fitzgerald「Gone With The Wind」
1960年2月西ドイツで行われたライブを収めたアルバム『Ella In Berlin - Mack The Knife』より。