7月2日〜7月6日のパーソナリティはギタリストの鈴木茂さんです。
プロフィール:1951年(昭和26年)東京都世田谷区奥沢生まれ。中学生の頃にエレキブームがあり、お兄さんがバンドを組んでいてギターに興味を持つようになり、お兄さんがいない時にこっそりギターを弾いていた。夏休みに友達の家に遊びに行った時に、友達のエレキギターを借りてベンチャーズ「パイプライン」を教えてもらって直ぐに弾けた(これが凄い)。それで面白くなりギターにのめり込んだのがきっかけ。アルバイトをしてお兄さんも援助してくれて銀座の楽器屋でエルクという会社のギターを買ってずっと使っていた。はっぴいえんどの1枚目のアルバムで大瀧詠一さんがこのギターを持っている写真があるそうです。その後、ギタリスト、プロデューサー、アレンジャー、作曲と色々活動の幅を広げていった。
鈴木茂さんのお気に入りの5枚です。
国内外のロックの歴史を知ることが出来るいいお話が沢山あったので、いっぱい書き起こしさせて頂きました。この方々の活躍が今の日本の音楽の基礎になっていると改めて感じたお話でした。
「エレクトリック・レディランド」 The Jimi Hendrix Experience
1968年(昭和43年)の秋に発売された2枚組のLP。鈴木さんは17歳の高校2年生。SKYというバンドを、ドラムの林立夫さん、ベースの小原礼さんとやっていた頃。林さん達はヤードバーズなどのイギリスのロックバンドをよく聴いていた。鈴木さんも影響を受けてクリーム、ヤードバーズ、トラフィック、プロコルハルムなど聴いていた。アメリカよりもイギリスのロックバンドが流行っていた。
そういう中でベンチャーズ以来突出して凄いと思ったギタリストがジミ・ヘンドリックス。規格外、枠を突破してしまうような、枠からはみ出てしまうような弾き方をするギタリスト。
ジミヘンの凄いところは何十年経っても彼をそっくり真似できる人もいない。彼を部分的に上回るギタリストは沢山いる(早く弾けたり、タッピングをしたり)。
ジミヘンはチョーキングを1音半したり型破りなことをする。譜面にも書けないような。セクシーな部分や音色のコピーはなかなか出来ない。ジミヘン以外にはあの弾き方は難しいと思っているそうです。
「All Along The Watchtower」が鈴木さんのお気に入りだそうです。最高のロックギターで表現されているアレンジメント。ボブ・ディランの曲で色んな人がカバーしているが、ジミヘンのバージョンを上回るものはない。
「ソルティ・ドック」PROCOL HARUM
「青い影」のヒット曲で知られるプロコル・ハルムの1969年(昭和44年)の作品。鈴木さんは高校3年生。アポロ11号が月に着陸して、夏にはアメリカのウッドストックで大規模なロックフェスティバルが開催された年です。イギリスのロックバンドがとても流行っていた時代でした。
そんな中でプロコル・ハルムという存在というのは、当時のロックのいいところを彼らは持っていて、いいところというのはロック・ミュージックというのは色んなジャンルの音楽をミックスできる、ミックスがやりやすい。プロコル・ハルムの場合は、クラシックとロックをミックスしたバンド。特に「青い影」がそう。そして、そのスタイルがとても統一されていてデビューの頃から一貫したスタイルを持ったバンド。
鈴木さんは多感な高校1年生の時にプロコル・ハルムの1枚目のアルバム「Shine On Brightly」を聴いて涙されたそうです。
ギタリストが音色、バンドの中でのギターのポジションでなかなか目を見張るものがあるそうです。ロビン・トロワー(Robin Trower)というギタリストで鈴木さんもだいぶ影響を受けたそうです。特にダブルチョーキングが得意で効果的に曲の中で使われている。
プロコル・ハルムの魅力はオルガン。オルガンの響きがプロコル・ハルムの代表的な刺激的で奥の深い音色。オルガンはマシュー・フィッシャー (Matthew Fisher) 。
ボーカルの歌唱力、白人だがブルージーな歌い方が出来る。他の人がカバーするのは難しいそうです。
クラシックのバッハの曲を思わせるようなメロディーライン、ベースラインはイギリス人ならでは。イギリス人は当時クラシック・ミュージシャンが親戚にいたり、そういう人間に関わる要素がヨーロッパの方が強いそうです。その中でもプロコル・ハルムは飛び抜けてクラシックの匂いを持ったバンドです。
「アビー・ロード」The Beatles
1969年(昭和44年)に発売されたLPレコード。鈴木さんは小学生の頃、エジソンにすごく興味があり真空管ラジオを秋葉原で部品を買ってきて作ったそうです。真空管ラジオから一番初めに流れてきた曲がビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」だったそうです。それが今だに頭に残っていて、ビートルズというと自分が一番最初に作ったラジオが演奏するということに直結しているそうです。僕も子供の頃ラジオ作っていたので、分かる気がします。ラジオが鳴るだけでも感動なのですが、さらにそこから聞こえるものがすごく意味のあるもので、自分で掴み取ったような、目の前に現れたような不思議な感覚です。
今回選んだ「アビー・ロード」は鈴木さんが高校2〜3年生の頃に発表されたアルバム。その頃ちょうど「はっぴいえんど」に入って(高校生の時なんですね。ビックリ!)、最初のアルバムを作った頃だそうです。夏に葉山に家を借りて皆んなで一夏過ごした時に頻繁に聴いたアルバムが「アビー・ロード」だそうです。全てにおいて洗練されたアルバムで、当時シンセサイザーという楽器が出はじめでロックバンドで一番最初にシンセサイザーを使ったのが「アビー・ロード」ではないかと鈴木さんは思っているそうです。アルバムの聴きどころは、ジョージ・ハリスンの曲。「サムシング」とか映像が浮かぶようなドラマチックな曲が多い。
ギターのジョージ・ハリスンについて。
鈴木さんがギターを始めたきっかけはベンチャーズで、イギリスのバンドを聴くようになって、1年半くらいで自分で思うように弾けるようになって(凄い!)、ロック以外のブルースを聴いたり、ジャズのレコード聴いたりとか色んな種類の音楽を聴くようになったそうです。
その時に自分はどんなギタリストになるべきかという自問自答していたそうです。その答えを見つけるのにとても役に立ったギタリストがジョージ・ハリスンだそうです。
「ギターのテクニックを追求するタイプ」か「オーケストレーションの中の一つのパートという解釈のギタリスト」の2つに分けて当時考えたそうです。「テクニックを追求するギタリスト」はジャズ・ギタリスト、ジミ・ヘンドリックス、ヴァン・ヘイレンなどのギターのテクニックを披露するタイプのギタリスト。後者は、弾きまくるということではなく、1曲の中で一番大切な場所に覚えられるような、曲をきちっと機能させるようなフレーズを入れるギタリスト。そういう2種類に分けたそうです。
鈴木さんは後者のジョージ・ハリスンのようなギタリストを選んだそうです。
1曲の中で4小節くらいしか出てこないけれど、その4小節がとても印象的だという、そういうタイプのギタリストがいいと思ったそうです。
それ以来、色んな人のコピーをしても、ある程度真似できたらそれ以上は追求しない、大切な部分だけを自分の中に取込むというアプローチを今も守ってやられているそうです。凄いですね。天才の選択肢。どちらに行かれても突出されていたのでしょうが。
ジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」や「タックスマン」など沢山ある印象的なギターのフレーズ、鈴木さんが目指されているところだそうです。
「アローン・トゥゲザー」Dave Mason
1970年(昭和45年)に発表されたLPレコード。デイブ・メイソンはイギリスのシンガーソングライターのギタリスト。1960年代後半にトラフィックというバンドを結成して「ペイパー・サン」、「ホール・イン・マイ・シュー」「フィーリン・オールライト」などの大ヒットを放ちました。その後トラヒックを離れ、ジミ・ヘンドリックス、ローリング・ストーンズ、ジョージ・ハリスン、デラニー&ボニーなどとのセッションやライブを経て発表されたのが、彼の初のソロアルバム「アローン・トゥゲザー」です。
鈴木さんはデイブ・メイソンのギタースタイルに影響を受けているそうで、シンプルな弾き方、カントリー・スケールの使い方が掴みやすい。弾きやすいし、印象に残るし、聴いている人の心に残って刻まれるような要素を持ったとても素晴らしいギタリストだと思っているそうです。ジミ・ヘンドリックスやジョージ・ハリスンとは違うスタイルですが、とても参考となるギタリストだそうです。
このアルバムの中にジム・ゴードンという素晴らしいドラマーがいます。「はっぴいえんど」の3枚目のアルバムをアメリカに録音しに行った時にジョニー・リバースというシンガーがライブハウスで演奏するという日があり、はっぴいえんどの4人で見に行ったそうです。ライブではジョニー・リバースでなく、ジム・ゴードンのドラムばかり4人は見ていたそうでジョニー・リバースに嫌な顔をされたそうです。タイムのとり方、グルーブの作り方が一番なんですが、音色が太くてブライト、エッジがはっきりしていて、ロックドラマーの音色ベスト3に入ると思っているそうです。1970年は「はっぴいえんど」がレコードデビューした年。大瀧さん、細野さんはジム・ゴードンのドラミングに影響を受けていたそうです。
デイブ・メイソンは作曲能力、シンプルな構成能力があります。音楽の賞味期限を長くする条件はチャック・ベリーの3コードのような「シンプルな曲作り」だそうです。
「MISSLIM」荒井由実
1974年(昭和49年)に発表された2枚目のLPレコード。ベース:細野晴臣さん、ドラム:林立夫さん、キーボード:松任谷正隆さん、ギター:鈴木茂さん。この4人が「ティン・パン・アレー」というバンドを作りました。
当時アメリカのレコード会社、モータウン、アトランティック色んなレコード会社に専属ミュージシャンが揃っていまして、モータウンにはモータウンのサウンド、アトランティックのサウンド、スタックスのサウンドそれぞれカラーがあったわけです。それはミュージシャンだけではなく、エンジニアの音作りも大きな力を発揮していたわけなんですが、当時参考にしていたプロデュース集団マッスル・ショールズを参考にしてバンドを作ろうと集まったそうです。
そして色んなシンガーを呼んで(当時は自分で曲を作る人が多かったのでシンガーソングライター)鈴木さん達のアイディアとミックスしてアルバムを作る。ゆくゆくは小さなレコード会社でも出来たらいいなという夢をもちならスタートしたそうです。
鈴木さんはティン・パンの前にユーミンとはシングルのレコーディングで会われているそうで、ティンパンを作った時にユーミンが当時所属していたアルファレコードの村井社長から依頼があったそうです。
ユーミンの作る曲は初めから好きだったそうです。プロコル・ハルムの影響を強く受けていていい曲を作る人だなと思ったそうです。詞が既に完成していて本人が歌ってくれたのでイメージがし易かったそうです(当時のレコーディングはまだ歌詞が出来上がっていなくてらららで歌う場合もあったり、本人じゃない人が歌ったりしていたそうです)。
「MISSLIM」は吉田美奈子さん、山下達郎さん、大貫妙子さんもコーラスで参加されていたり、当時の才能のあるミュージシャンが集まったアルバムです。
70年代は60年代のヨーロッパやアメリカの音楽に影響を受けて、日本でどういう音楽が作れるのか試行錯誤で作り上げていた時代だそうです。この時代の前はグループ・サウンズがあったのですが、違いは自分たちの中から湧き出てきたメロディーを形にした音楽(グループ・サウンズの時代は自分達で曲を作る人もいたが、作曲家が作った曲を演奏していたバンドもあったので)、より個人的な音楽を作り上げて、それを皆んなで集まって形にしたのが70年代の音楽。それが今でも支持されている大きな要素だと思うそうです。
その中でもユーミンは飛び抜けた作曲能力を持ったミュージシャン。心に入り込んでくるスピードが他のミュージシャンとは違っていて、ストレートに入り込んでくるテクニックを持っている。言葉の選び方、メロディーの作り方、特にフック、サビの部分が印象的で真似の出来ないユーミンならではというメロディラインが一杯あります。